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■新田ビル誕生
震災後のモダンな建築物として
新田ビルは昭和5年(1930年)6月、(株)新田調帯製造所東京出張所として建設された。
なおそれ以前の東京支店は大正12年(1923年)9月の関東大震災で全焼、以降はバラックで営業していたものを、当時としては最高の耐震建築物として鉄筋コンクリート造り外装タイル貼り5階建延べ3,500m2(約1,060坪)のモダンなビルとして建てられた。
ご覧の如く、デザインとしてはスペイン式で、1階は大きなアーチ窓、外壁にぐるりと付けられたレリーフと当時流行のアールデコ様式の内装が特徴で、ビルの西北角屋上にはアーチを巡らした装飾物としての搭屋(鐘楼)があり、銀座8丁目のシンボルとして長年に亘り親しまれてきた。
また当ビルは耐火性抜群であったがゆえに第2次世界大戦中の昭和20年(1945年)の銀座大空襲にも耐え、今日に至っている。
但し、残念乍ら搭屋は昭和55年(1980年)ごろからビルの向かい側に高速道路が開通、自動車の増加による大気汚染や酸性雨などにより外壁崩落の危険が生じたため撤去、更にビル本体壁面も安全のためネットで覆った。(※搭屋撤去→昭和61年:1985年)
なお、昭和40年(1965年)以降の東京、特に銀座界隈は昭和初期の古いビルが急速に取り壊され、当時の面影が稀少になったため、大正後半から昭和にかけてを舞台とした映画やテレビドラマ及びモード雑誌がたびたび使用している。
更に平成5年(1993年)選定の「銀座建築マップ101」にも、服部時計店、交詢社ビル等とともに東京銀座の古き良き時代の建築物に選ばれている。(注)交詢社ビルは'02.9月現在、再建築のため取壊し中。
新田ビルの設計者は木子七郎(きご・しちろう)氏で、同氏は他に東京広尾の日本赤十字社(1936年)や、京都の関西日仏学館(同)など多数の設計に携わった。因みに木子婦人は新田家の出である。
イラストは新田ビル竣工時のもので、当時は道路の向かい側は川が流れ500m先の土橋にて潮の香漂う東京湾となり、この川では蜆(シジミ)がとれたとのこと。現在では埋立てられ地下2階を地下鉄丸の内線が、地下1階と地上1・2階が商店街・事務所として、更にその上は高速道路として使用されている。
写真は平成14年(2002年)7月、高速道路、東海道線等の向い側の松村組ビル屋上から撮影の新田ビルで、イラストと比較すると、前者は周りが平屋建てゆえ高層ビルの様であり後者はビルの狭間の建物と言えようか。
新田ビルが建設された1930年といえば、前年の10月ニューヨークでの株の暴落に始まる大恐慌が世界を覆った年。以降、戦争への足音が日増しに高まっていった。
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